鍼灸師は職人である〜治療実力は繰り返しの技術鍛錬でこそ獲得できる!

私が「氣鍼医術」を提唱してからも、その前からも、「研修」という形で治療室を手伝ってくれる若い鍼灸師たちが何人来てくれただろう。そして去っていっただろうか。
なぜ去っていったのか。私自身の至らなさを棚に上げておいて考えてみた。
納得したことが2つ。
ひとつは、生き方は人それぞれで離れていくのは当たり前で、独立はめでたいことである。とやかくはいう必要はない。
しかし確実に譲れないことがあることに気が付いた。それは鍼灸医術の勉学に対する考え方・方法がはっきりと異なるということなのだ。個々それぞれ違う、そんなこと当たり前ではないか。いや、当たり前ではない。次のように分別できるのだ。

➀「術よりも学」を重んじる人たち
②「学よりも術」を重んじる人たち
このふた通りなのだ。そんなの両方だろうとお思いの方もいるだろう。
しかし私は、②の立場「学よりも術を優先する」ことこそ臨床家のあるべき姿であると確信している。そこが譲れない重要ポイントなのだ。

鍼灸医術は目の前に呻吟する患者の病証を治癒せしめることが大目的である。「本に書いてあった通りにやったから治るはずなんだけど」と、治療する恰好だけではだめなのだ。確実に患者さんの病気を治癒しなければいけないのだ。
私は中高と野球部に所属していた。打者はヒット・ホームランを打つことが役割、ピッチャーは打者を凡打か三振に取ることが役割であることは明らかである。打率・三振率を向上させるには毎日500回の素振りをし、2時間のバッティング練習を繰り返す。投手は三振率アップのためブルペンで何百球と投げ込みを繰り返し、外野でダッシュを繰り返し足腰を鍛える。夏も冬も繰り返し練習する。その姿勢が甲子園への道であった。

翻って鍼灸医術においてもそれは共通項である。毎日自分の脉を診、自分の身体を練習台に刺鍼練習をしながら、自分の身体をメンテナンスもする。そのうえで臨床に入り患者さんの生身の病体に鍼治療をさせていただく。その臨床の繰り返しが鍼灸医術の治療実力を高めることになる。
その毎日の鍛錬を繰り返したうえで「難経・素問霊枢」などの古典を再検証するのである。臨床を通して古典を再検討する姿勢こそ不可欠なのだ。次々新しい知識を学びたい、もっと異なる知識はないのか、と思う心持ちにこそ「学問のための学問をする」「いろんな講習会に参加することに意義を感じる」という自分満足の落とし穴に陥るのだ。

戦場において大刀に槍を持って臨むならまだいざ知らず、大刀・槍さらに長刀や青龍刀まで担いでさらに馬にまでまたがって敵と戦えるわけがない。多数の武器をもって強くなったなどと勘違いもはなはだしい。こんな武将はすぐに雑兵に命を取られてしまうだろう。
鍼灸師も全く同様である。多数の古典文献を読んだからと、種々の講習会に参加したからと、治療の技術は向上などしない。治療実力の獲得のためにはまずはひとつでいい、「高度システム化された治療技術」の鍛錬が不可欠なのだ。何度も大声で言うが、治すための技術獲得には「高度システム化されたひとつの治療技術」の「繰り返しの鍛錬」しかないのだ。
初出:2017/02/21
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