臨床が伴わない鍼灸師とならぬために

鍼のことなど右も左もわからなかった数年前、中村泰山先生が氣鍼医術を知らない方に説明される際の枕の文言が不思議でなかったのです。

従来の経絡治療を臨床上で考察検証を重ね発展させたもの

この通りではなかったですが、こんな感じでした。

私が引っかかったのは「臨床上」という箇所です。

臨床って、そんなん当たり前やん、と。

実験動物を相手にしているわけでもなし、患者さんと向き合っていろんな症例を検証して、それゆえの臨床とちゃうの。

と、思っていたのですが。

が。

鍼灸の世界には実験動物並みに(違)勘違いを促す手強い相手がいるということがわかりました。

それは古典。

大いなる偉大な先達であるはずの古典、偉大なるがゆえに目の前の症状よりも古典の記述の方に重きを置いてしまう。

木を見て森を見ず、ではなく、森ばっか見て木を見てないようなものでしょうか。

みなさんご存知のように(知らんか)従来の経絡治療では認められていなかった心虚証、心実証、腎実証などの存在を氣鍼医術は臨床で明らかにしました。

いまある氣鍼医術の理論は、葛野代表が「臨床において」古典との矛盾の解明や補填を行ったことで出来上がったものです。

臨床上ということは、結果が出ている、ということです。確実な結果が得られ、再現性のあるものだけが生き残っているのです。

古典に重きを置くがあまり、臨床上の矛盾箇所には目をつぶってしまうという本末転倒が事態となっている、それは畢竟、治療力の低下です。

古典は確かに頼りになる灯台ですが、灯台ばっかり見て足元の波に呑まれてしまうことのないように、古典を参照するならば臨床の後で、ということを葛野代表が語っております。

ご高覧いただけば幸いです。

臨床が伴わない鍼灸師とならぬよう、古典の参照は臨床の後で。

文責:サイト管理人

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